エンジニア♀暗中模索

ハッカーに憧れてる

雑念との勝負

逆にいえば、何かをやり遂げるまで雑念を入れない

とにかく、雑念を排除する

目の前の苦痛から逃げる安心感、そして成長しない自分のサイクル

できないこと、もしかしたらできないかもしれないこと

そんな事と向き合っているより、自分ができる”かも”しれないことに

しがみついた方が良い

 

でも、”かも”だけじゃだめで、本当に”出来る”必要があって、

出来る”かも”と出来るにはまた大きな開きがあって、苦しい。

こんなこと考えるよりも何も、苦しい自分を捉えるよりも、

前に進む努力をしなければと思うのだけれど、

実際に出来るわけじゃないからよっぽど苦しい

 

というわけで、出来るかなんかわからないけれど、自分の小さいリミットを設定した

このリミットを達成しなければ、自分が全力を尽くしたと思わなければ、

私の夢は早々に諦めようかな

自分の諦める基準値を決めた方がよいのかもしれない

 

とにもかくにも、取り組むこと、努力をすること以上に必要なことはないわけで、

やり切るしか無いな

進まない展開にしがみつく自分

自分は、資料作成の能力が本当にない。

作りはじめると、吐き気がするし、全然まとまらない

このまとまらない状況を長く続けることを、私は今後絶対にしない

とにかく、作る、作る以外やらない

今後半年近く、資料は作らないことに決めた

吐き気がするし、本当にやりたいくない事である

能動的選択と受動的選択

人は日々日々選択に迫られている。

今外出するのか、それともあとにするのか。

同僚と飲みに行くのか、それとも自分のテレビを観る時間を優先するのか。

そして、仕事ととなれば、本当にもう選択の連続。

上司の思惑に乗るのか、それとも自分が考える進め方にこだわるのか。

それら一つずつ、選択がある。

 

その選択は、相手が選択を与えてきた場合の「受動的選択」、

自ら選択肢を作る「能動的選択」がある。

例えば、友人と遊びたい!って思ったとき、

友達を誘うことは「能動的」に選択したことになり、

友人から誘われれば「受動的な選択」をすることになる

 

友人と遊んだとすれば、結果は同じであるが、過程は全く異なる。

きっと共感してくれる人もいるだろうけれど、この「能動的な選択」は結構気が重い

もしかしたら、友達に断られてしまうかもしれないと思うと、なかなか誘えなかったりする

逆に「受動的な選択」であれば、この断られてしまうかもという不安はない。

逆に断った場合に相手に嫌な思いをさせてしまうかもしれないという不安はあるけれども。

 

よく、失敗するのであれば、自分で選んで行動したほうが良いという言葉もあるが、実はそうとは言い切れない。

しかし、「受動的選択」を選びながら、自分の思い描く先を作れるのは、それなりに熟練者である必要がある、といえる。

基本的に「受動的な選択」をしている間、自分以外の誰かの思惑の中を生きることになる。

このとき、自分以外の人の思惑を配慮しつつ、自分の思惑をさりげなく盛り込んでいける能力だ。

実は、この方が効率が良いことがある

なぜかというと、「能動的選択」を行使することが好きな人は、どこか向こう見ずなところがある。

とにかく行動力だけは優れている、という場合がある。

「受動的選択」をする人は、その行動力に乗り、自分の思惑を拡散してもらうことができたりする。

 

とはいえ、実際これができる人は、かなり頭が良い場合が多く、熟練者だと思ってる。

自分にはそれができそうにない。

そして、上記行動が取れない「受動的選択」は単純に搾取構造にあるもいえ、

私自身は当面は「能動的選択」を行使しながら、選択を選んでいきたい。

現状無職

先日会社を辞め、絶賛無職状態である。

会社をやめたこと、そして自分の生き方をしたいと思ってやめたはずなのに

なぜかすごく苦しい

その会社でも働けなかったのかという自責がある。

なんとなく、自分は企業で働ける能力があると勝手に高をくくっていた

だから、その能力が自分に全然ないということがわかり、

プライドがへし折れている

 

これを覆すため、努力を怠ってはいけない

自分のやりたいことだけを、針をさすように突き詰めて行かなければならない

私は一人だから、その針を刺していくことをためらってはいけない

それは、私にとって命とりになる

守りに入るな、それは死を意味する

自分の中のマックスの行動を常にとれ

引きこもりでも、対人関係でも、何でも良い

他の追随を許さない行動を取れ

なんとなく取り組むな

なんとなく、中途半端な行動は他の人からも見透かされる

見透かされた行動は、他の人からの狙いどころとされる

マックスの行動を取れ

他の追随を許すな

嫌なことがなければ、考える力は身につかないでしょ。学校は関係ない。

人生どこかのタイミングで、自分の人生このままで良いんだろうか?を

針をさすように突き詰めて考える期間が、あるか、無いかだと思う。

これについては、学歴の有無は関係がない。

むしろ、学歴がある場合、他者からの承認が得やすく、本質的な部分まで遡って考える力をつけるタイミングを失うかもしれない。

ただ、学歴がないから、自分の人生や自分という人間について本質的に考えるかどうかはまた別の話である。

低学歴の人は、社会的に考えれば人数は非常に多い。互いに承認し合う土壌はしっかりとある。

 

じゃあいつ考える力が身につくのかというと、

自分の人生の理想状態と、現実とのギャップを感じたとき。

そして、そのギャップを埋めるために行動を起こしたいと考えた時。

理想と現実とのギャップを感じる事自体は、実はそんなに珍しくない

これは多くの人が感じているため、不満や愚痴は酒の肴になるし、

カフェで話をしているだけでも十分である。

 

しかし、このギャップを埋める行動を実際に取ろうと考えた場合、

ほとんどの人が行動を取らないため、かなり異質な存在=浮いた存在となってしまう

行動を積み重ねていけば、積み重ねていくほど、人数が少なく、

どんどん浮いた存在になってしまう

 

本来は浮いた存在になるための行動ではないから、世間とのギャップに余計に悩まされることになる。

なので、こう考えると。考える力を身につけるためには、最初に考えることよりも、行動することなのかもしれない。

行動すると、自分の行動に対しての他者の想定と違う冷ややか?不可思議?な反応を目の当たりにして、どんどん考えるサイクル地獄に陥ることができる。